インクルーシブな価値観や文化

以前から、インクルーシブ教育のためには「システム」と「文化」の両方が必要、とよく言っている。


去年書いた「システムで担保できること、できないこと」で書いたことから抜粋。

システムは、集合体や組織における役割をそれぞれが円滑に遂行したり、それによって最低限の質を担保したりするためのもの。だと思っている。

例えば「合理的配慮」について考えてみる。
「合理的配慮を拒否することは差別につながる」ってことがルール化されるとする。
誰もが「ルール」に従って配慮をするようになる。
「ルール」を守らないヤツは「悪」にもなり得る。
このような「システム」は果たして「多様性を前提としたインクルーシブな社会」につながるのだろうか。


今後「インクルーシブ教育システム」の構築が進められたとして、合理的配慮が義務付けられて、「発達障害」のある子どもへの支援が学級の中で当たり前のようにされなければならないようになるとする。

ただ、そういうシステムを作るだけでは、「インクルーシブ」な価値観を生まれない。

極端な言い方を敢えてすると、日本の現行の特別支援教育やインクルーシブ教育システムの発想では、「配慮」はされるようになるが、「みんなと同じじゃ無理だから」という価値観がそこにはくっ付いてくる。「みんなと同じじゃ無理だから、別のやり方でやろう、別の場にしよう」という発想はまったくもってインクルーシブな価値観ではない。

インクルーシブな価値観や文化とは、誰もが「違う」ことが当たり前である文化。

誰もが違うことが当たり前な文化や価値観が学校にないと、どんなに特別支援教育を推進しても、どんなに新しくシステムを作ったとしても、意味がない。

たとえば書くことに困難さのある子どもが、iPadを使って学習をする。
「システム」では、それが義務付けられているから、それがどこでも可能になるとする。
それに対して、周りの子どもは「あの子は僕らと同じようにできないから、iPadを使うんだ」と認識をする。先生は「○○ちゃんは書くことが苦手なだからiPadを使うのよ」と「言い訳」をする。

それは全くインクルーシブな価値観じゃない。

周りの子どもたちが、「あの子はノートに書くより、iPadを使う学び方の方が合っているから、そうするんだ」と思うのがインクルーシブな価値観。
iPadもノートも同等の「選択肢」。

「できない」が悪いことじゃないこと、「違う」が悪いことじゃないこと。

そんな価値観を作り出すには、自分に「合っている」学び方を選択していくことが可能であり、どれを選択しても学びが保障できる仕掛けが必要。

学び方、学ぶ内容、学ぶ場に「優劣」は全くない。どれも同等な「選択肢」である。
そういう価値観が生まれる。

誰もが「できないから選ばざるを得ない」のではなく、「合っているから選ぶ」「魅力的だから選ぶ」「好きだから選ぶ」

全ての人達がポジティブな選択をできるようにしていきたい。

そのためには何ができるのかなあ。

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