私たち一人ひとりが「障害」をつくっている

以前「差異のジレンマ」について書いた。ラベルをつけることによるメリットとデメリット。



一度仲の良い「アスペルガー障害」の診断名がついている方に聞いたことがある。
「あなたが感じている困難さと私が感じている困難さの違いってなんですかね?」


感じる困難さは、障害の有無関わらず、ラベルに関わらず、環境との相互作用によって異なる。

かつ感じる困難さは主観的なもの。
つまり、相対的に評価できない。

だから、ある特定のラベルの人がそれ以外の人よりも困難だ、とは言えない。逆に決めつけになる。
もちろん、今の社会は心身の障害に関する理解が少ないため、理解啓発をする必要はあると思う。


一方で、とくに発達障害はスペクトラム。
「ここからここの人は障害があるから困難さをもってて、ここからここの人は診断がつかないから困難さはない」とは言えない。

なので、一番の理想としては、障害の有無関わらず、誰もが自分が想像し得ない困難さを抱えている可能性があることを前提として他者と接することができたらいい。
これが社会モデルの本質じゃないのかな?

いまはその「想像し得ない困難さ」に対する想像力を引き出すためのラベルだとわたしは思っている。それを自覚せずにラベルで語るのはどうだろう。

つまり「発達障害の人は発達障害ではない人より困難さを抱えている」や「不幸せだ」との決めつけや言い切りは逆に差別になる。

それを自覚して言葉を使わないと、本質的に差別をなくすことに繋がらない。


私はやっぱり「障害」は社会が作っていると思う。
つまり
その社会を構成する私たち一人ひとりが作っていると思う。
それに気が付いた人が一肌脱いでいくしかない。

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